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1楼主 = =2009/3/15 22:13:00
日本いかに湿潤な国であるか、私は外国を旅するたびに、いやというほど思い知らされる。ヨーロッパと日本とではそれほど風土の差がないように思われるが、湿度がちがう。だから、やたらにのどが渇く。日本人の旅行者にとって何より辛いのは、ヨーロッパの街でレストランに人っても、カフェ立ち寄っても、水を出してくれないことである。人びとはそんなに水を飲まないのだ。それに日本以外の国では、生の水をそのまま飲めるようなところはめったにない。だから、水はコーヒーなどよりも高い場合がしばしばある。金を払って水を飲むという発想が日本人にはないから、代金を請求されてびっくりする。私もおどろき、いまさらのように日本人は“水の民”なんだなあ、と痛感した。
では、日本人の胸の奥で、水はどのような音を響かせているのであうか。水音を表現した、擬態語、擬声語が、その微妙な音をさまざまにつたえている。擬態語というのは、ものごとの狀態を象徵的に音であらわした語であり、擬声語というのは物音や動物の鳴き声などを、写実的にとらえた語である。言語学では、それをオナマトぺ(onomatope)というが、日本語には、こうした擬声語、擬態語がきわめて多い。オナマトぺが日本語の特質だといってもいいほどである。このことは、おそらく日本人が音に対してきわめて敏感であることを語っているのであろう。そして、それも水と深い関係があるように思われる。というのは、数多くの擬声語、擬態語のなかでも、ことに水に縁のある語が目立つからである。
じっさい、ほかの国の言葉で日本語ほど多様な表現をもっている例はないといってもいいのではあるまいか。だから、さきの蕪村の句を外国語に翻訳するのは至難なのである。たとえば英語やドイツ語やフランス語で「のたりのたり」をどのように表現したらいいのだろう。私はさんざん苦労したあげく、ついにこの句を外国の知人に説明し得なかった。
「のたりのたり」だけではない。水についてのオナマトぺは、そのほとんどが翻訳不可能である。たとえば、文部省唱歌の「春の小川はさらさら流る」の「さらさら」は、どう訳した水て布などを洗う音は「ざぶざぶ」であり、涙が流れる様子は「さめざめ」であり、水気をふくんださまは「しっとり」であり、それが外ににじむほどであれば「じっとり」であり、湿気が過度であれば「じめじめ」であり、水が絶えず流れ出る状態は「じゃあじゃあ」であり、水が揺れ動く様相は「じゃぶじゃぶ」であり、水滴が垂れる音は「ぽたぽた」であり、水が跳ねる有様は「ぴちゃぴちゃ」であり、水にひどく濡れる形容は「びしょびしょ」であり、水に何かが軽そうに浮かんでいるのは「ぷかぷか」、水に沈むさまは「ぶくぶく」、雨が降り出すのは「ぽつぽつ」、水中から泡が浮かびあがるのは「ぼこぼこ」、水を一気に飲み干すさまは「がぶがぶ」、水が何かに吸い込まれる音は「ごぼごぼ」、そして、大波は「とどろ」に打ち寄せ、滝は「ごうごう」と落ち、石は水中に「どぶん」と沈み、水は「ばちゃっ」と跳ねかえり、夕立は「ざ一っ」と襲い、梅雨は「しとしと」と降りつづく。
もし言語がこの世界のすべてを表現しつくせるものなら、言葉さえあれば何もかも理解できてしまうだろう。しかし、そうはいかない。そうはいかないからこそ、言葉ではいいあらわせない別の表現を人間は考え出してきたのだ。たとえば絵画であり音楽である。セザンヌの絵を、あるいはモ一ツァルトの音楽を言葉にそっくり置きかえるなどということができるであろうとか。私はオノマトぺを言語と音楽との接点として考える。それは人間の感性を音声そのものによって表現しようとする伝達の手段だからだ。したがって、擬声語、擬態語はきわめて微妙な感性を得るかわりに抽象性を欠き、普遍性を犠牲にせざるを得ない。オノマトぺはあくまで限られた言語、内輪の言葉という宿命をもつのである。
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万能的xq,万能的jms
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