902 = =2014/2/27 11:17:00
= =2014-2-26 19:04:00
= =2014-2-26 19:22:00
= =2014-2-27 9:25:00
919 = =2015/8/6 16:59:00
実際、作中でフォーカスされるのは、「死にたくない」と公言する宮部久蔵という人間がなぜ特攻で戦死したのかという"ミステリー"と、彼をとりまく家族、戦友たちの"感情の動き"だ。特攻という非人間的な作戦が考案され実施された背景、そしてその責任の所在は、ほとんど言及されない。たとえば史実では、神風特攻隊の創始者である大西瀧治郎中将は、玉音放送翌日に割腹自殺している。だがこうした話は、映画では一秒も触れられていないのだ。
「また宇垣纏中将もいます、彼は第五航空艦隊司令官でしたが、鹿屋から特攻を出した責任者だから、生きてはおれないということで事実上の自殺をしています。敗戦が明らかになった8月15日でしたが、まだ停戦命令が出ていないからと、自分の判断で行けると決めて11機でしたか部下たちの彗星(爆撃機)を率いて特攻に出て行きました。でも自分だけが割腹やピストルで自殺するといかいうのならまだわかるけど、なぜ部下を連れて行ったのかという、それはものすごく最後の責任の取り方まで人命軽視だったということですね。部下の人命をなんと考えていたのかと思います。そういう点では大きな反省点として出てくるべきでしょう。でもそういうことが映画には出てきていない」
死にたくない、生きて帰る、家族を守る──そのシンプルさが故に、ここには確かに見落とされているものがある。それは "どうしてこの戦争が起きてしまったのか""いったいなぜ特攻という悲劇が生まれたのか"ということ。過ちを二度と繰り返さないために、わたしたちが学ぶ必要のある、もっとも重要な問いかけが、『永遠の0』にはない。?
しかも、『永遠の0』が犯罪的なのは、特攻という国家犯罪を"家族のために"といういかにも現代的な価値観でコーティングして、その本質を見えなくさせていることだ。
岩井氏も「怖いですね。この映画だけを観て、やはり一種の感動を持つ人が多いんじゃないかと思いますから」と語っているが、読者や観客はこのような人物がなぜ特攻を選んだのかというミステリーにのめり込んで、宮部久蔵の生き様に共感し、落涙してしまう。
スタジオジブリの高畑勲監督は、「昨今の"良心的な反戦映画"は、家族を守るために戦地へいくことを強調するけれども、それはお国のため、天皇陛下万歳では、今の人が共感できないから、そのかわりに客の同情を得るため」と指摘し、それを"反戦"とするのは「詭弁」だと批判した。そういう意味では『永遠の0』は高畑監督のいう「詭弁を弄す昨今の反戦映画」の典型といっていいだろう。
特攻艇「震洋」の特攻要員だった岩井氏は、『永遠の0』の小説を読み、映画を観た人へのメッセージを聞かれ、こう答えている。
「著作物はテーマを限定して書かれるのは当然のことで、必ずしも戦争を全面的に書くことは難しい。それは承知のことです。しかし戦争に対してどういう向き合い方をするのかということは、やはり書く上でその前提になることでしょう。それなしにこんなテーマを取り上げるということは、とても無責任なことではないでしょうか。(略)
若い人だけでなく政治家についてもそれを強く言いたい。戦争について何も知らない人が議員になり大臣になる。こういう事態ってどう考えればいいんでしょうかね」
安倍晋三首相は『永遠の0』を「感動しました」と絶賛し、百田尚樹は「命の大切さを伝えたい」という。だが、それは彼らの政治的スタンスとまったく矛盾しない。こんな薄っぺらい感動ドラマに酔える人物だからこそ平気で戦争法案をつくりだし、それを全面支援することができるのだ。
920 = =2015/8/6 17:03:00
反戦のふりをした戦争肯定映画『永遠の0』にだまされるな! 本当の反戦とは何か、ジブリ高畑勲監督の言葉をきけ!
本日『永遠の0』が地上波初放送された。『殉愛』や「沖縄の新聞はつぶせ」発言ですっかりトンデモ評価を定着させた百田尚樹だが、この『永遠の0』だけはすばらしいという人が少なくない。
本サイトでは『永遠の0』が戦争賛美のファンタジーであることを繰り返し指摘しているが、「読まずに、百田だからレッテル貼りで戦争賛美と言ってるだけ」「『永遠の0』は戦争の恐ろしさを描いている」「命の大切さを訴えている」だから、『永遠の0』は反戦映画である、という声が変わらず多い。作者の百田自身も、「戦争賛美ではない」と主張している。
しかし、『永遠の0』を反戦だと思い込んでる方にぜひ読んでいただきたい記事がある。スタジオジブリの高畑勲監督の反戦への思いを紹介した記事だ。高畑勲監督といえば、戦争孤児を描いた『火垂るの墓』が有名だ。戦争の悲惨さを描いた同作は、海外からの評価も高く、公開から20年近く経ったいまなお“反戦映画”の名作として受け継がれている。
ところが、当の高畑監督は「『火垂るの墓』は反戦映画じゃない、『火垂るの墓』では戦争を止められない」と語っているのだ。
高畑監督のいう、本当の反戦とは何か。この高畑監督の言葉を紹介した記事を再録するので、『永遠の0』で涙を流しているヒマがあったら、読んであらためて考えてもらいたい。
(編集部)
***********************
ついに日本時間の23日、第87回アカデミー賞が発表になる。注目は、長編アニメ映画部門賞にノミネートされている高畑勲監督作品『かぐや姫の物語』の行方。長編アニメ映画部門で日本人がノミネートされるのは、宮崎駿監督以外でははじめてのこと。さらにもし受賞すれば、2002年の『千と千尋の神隠し』以来2度目の快挙となる。下馬評では『ヒックとドラゴン2(仮題)』の受賞が有力視されているが、『かぐや姫の物語』の群を抜いた芸術性によって、高畑監督は世界から視線を集めているといっていいだろう。
高畑監督といえば、1988年に日本で公開された『火垂るの墓』が海外でも高い評価を受け、イギリスでは実写映画化される予定も。いまなお“反戦映画”として引き継がれている名作だが、じつは、高畑監督はこの自作について意外な認識をもっているらしい。
「『火垂るの墓』は反戦映画と評されますが、反戦映画が戦争を起こさないため、止めるためのものであるなら、あの作品はそうした役には立たないのではないか。そう言うと大抵は驚かれますが」
このように答えているのは、今年の元旦、神奈川新聞に掲載されたインタビューでのこと。
しかし、『火垂るの墓』を観たときに多くの人が抱くのは、なんの罪もない幼い兄妹?清太と節子が戦争に巻きこまれ、死に追いやられることへのやり場のない怒りと悲しみだ。そして、やさしいはずの親戚さえ手を差し伸べなくなるという、戦争のもうひとつの恐ろしさを知る。死にたくない、殺されたくない、あんなひもじい思いは絶対にしたくない──そういう気持ちが生まれる『火垂るの墓』は反戦映画だと思っていたし、実際、学校などでも「戦争という過ちを犯さないために」という理由で『火垂るの墓』が上映されることは多い。
それがいったいなぜ役に立たないのか。高畑監督はこう語っている。
「攻め込まれてひどい目に遭った経験をいくら伝えても、これからの戦争を止める力にはなりにくいのではないか。なぜか。為政者が次なる戦争を始める時は「そういう目に遭わないために戦争をするのだ」と言うに決まっているからです。自衛のための戦争だ、と。惨禍を繰り返したくないという切実な思いを利用し、感情に訴えかけてくる」
そう。高畑監督にいわせれば、「死にたくない」だけではダメだというのだ。むしろ逆に、「死にたくない、殺されたくない」という感情につけ込まれて、再び戦争は始まるものだと指摘する。
これを聞いて思い出したのが、百田尚樹氏やその支持者がしきりに口にしている『永遠の0』=反戦小説論だ。
先日、本サイトでも検証していたように、『永遠の0』は反戦でも何でもない、明らかな戦争賛美ファンタジー小説だ。軍上層部を批判してはいるが、こうすれば勝てたのにと作戦内容を糾弾しているだけで、戦争を始めたこと自体は一切批判していない。「死にたくない」というのが口癖の人物を主人公にし、特攻隊員が生命をかけていることについては悲劇的に描いているが、彼らが米軍機を容赦なく撃ち落としていることはまるでスポーツ解説でヒーローを褒め称えるように全面肯定している。
つまり、百田たちはこの程度のものを「私は『永遠の0』で特攻を断固否定した」「戦争を肯定したことは一度もない」「『永遠の0』は戦争賛美じゃない、反戦だ」と強弁しているのだ。
それに比べて、あれだけリアルに悲惨な戦争の現実を描きながら、自作のことを「反戦の役に立たない」という高畑監督のシビアさはどうだろう。
だが、高畑監督の言うように、死にたくない、殺されたくないというのは、一見、戦争に反対しているように見えて、それだけで戦争を抑止する力にはならない、というのは事実だ。
死にたくない、というだけなら、その先には必ず、死なないために、殺されないために相手を殺す、という発想が出てくるからだ。さらに、存在を放置しておいたら自分たちが殺される、という理由で、先に攻撃を加えるようになる。
実際、これまでの多くの戦争が「自衛」という名目で行われてきた。日本国憲法制定時の総理大臣?吉田茂は「国家正当防衛権による戦争は正当なりとせらるるようであるが、私は斯くの如きことを認むることが有害であると思うのであります。近年の戦争は多くは国家防衛 権の名に於て行われたることは顕著なる事実であります。」と言ったが、先の戦争はまさにそうだった。日本はアジア各国で『火垂るの墓』の清太と節子と同じように罪のない人たちを戦争に巻きこみ、日本兵が殺されたように他国の兵隊や一般市民を殺してきたのだ。
それは最近の戦争も変わらない。いや、ありもしない大量破壊兵器の存在を名目にアメリカが始めたイラク戦争のように、「殺されたくないから先に殺す」という傾向はますます強くなっている。自分は安全な場所にいてミサイルのスイッチを押すだけなら、戦争してもいいというムードさえ出てきている。
本当の意味で戦争をなくそうとするなら、「死にたくない」だけでは足りない、「人を殺したくない」という気持ちこそが、はじめて戦争の抑止力となる。おそらく高畑監督はそう言いたかったのだろう。
だが、残念ながら、この国はまったく逆の、百田的な方向に向かっている。「殺されたくない」という人の気持ちを利用して、集団的自衛権の行使容認や憲法9条の改正を目論む安倍首相をはじめとする勢力と、彼らがつくり出している空気に、いま日本は覆われようとしている。
高畑は同インタビュ―でそうした動きについても踏み込んで、つよく批判している。
「「戦争をしたとしても、あのような失敗はしない。われわれはもっと賢くやる。70年前とは時代が違う」とも言うでしょう。本当でしょうか。私たちは戦争中の人と比べて進歩したでしょうか。3?11で安全神話が崩れた後の原発をめぐる為政者の対応をみても、そうは思えません。成り行きでずるずるいくだけで、人々が仕方がないと諦めるところへいつの間にかもっていく。あの戦争の負け方と同じです」
そして、高畑は“憲法9条があったからこそ、日本は戦争によって殺されることも、だれかを殺すこともしないで済んできた”と言う。それがいま、安倍首相によって崩されようとしていることに強い懸念を示すのだ。
「(憲法9条が)政権の手足を縛ってきたのです。これを完全にひっくり返すのが安倍政権です。それも憲法改正を国民に問うことなく、憲法解釈の変更という手法で、です」
「「普通の国」なんかになる必要はない。ユニークな国であり続けるべきです。 戦争ができる国になったら、必ず戦争をする国になってしまう。閣議決定で集団的自衛権の行使を認めることによって9条は突如、突破された。私たちはかつてない驚くべき危機に直面しているのではないでしょうか。あの戦争を知っている人なら分かる。戦争が始まる前、つまり、いまが大事です。始めてしまえば、私たちは流されてしまう。だから小さな歯止めではなく、絶対的な歯止めが必要なのです。それが9条だった」
高畑がその才能を見出し、ともにライバルとしてスタジオジブリで切磋してきた同志?宮崎駿も、先日、ラジオで改憲に踏み切ろうとする安倍首相への危機感と9条の重要性を口にした。だが。映画界の世界的な巨匠ふたりが揃って発するメッセージを、安倍政権がまともに相手にすることはないだろう。
しかし、それは結局、わたしたちの選択の結果なのだ。高畑はこの国の国民のメンタリティについてこんな懸念を表明している。
「(先の戦争について)いやいや戦争に協力させられたのだと思っている人も多いけれど、大多数が戦勝を祝うちょうちん行列に進んで参加した。非国民という言葉は、一般人が自分たちに同調しない一般人に向けて使った言葉です。
「空気を読む」と若者が言うでしょう。私はこの言葉を聞いて絶望的な気持ちになります。私たち日本人は昔と全然変わっていないんじゃないか、と。周りと協調することは良いことですが、この言葉は協調ではなくて同調を求めるものです。歩調を合わせることが絶対の価値になっている。(中略)
古くからあるこの体質によって日本は泥沼の戦争に踏み込んでいったのです。私はこれを「ズルズル体質」と呼んでいますが、「空気を読む」なんて聞くと、これからもそうなる危うさを感じずにはいられません。」
921 = =2015/8/6 17:06:00
何度でも言おう 『永遠の0』は反戦作品じゃない、平和ボケの戦争賛美ファンタジーだ!
『永遠の0』について、百田は「私は『永遠の0』で特攻を断固否定した」「戦争を肯定したことは一度もない」「一部の粘着する連中から『百田尚樹は特攻を賛美して肯定する軍国主義者とだ(原文ママ)』と執拗に非難される。多くは本を読んでない人だが中には読んだと言う者もいるから唖然とする」と言い張ってきた。
百田本人だけではない。安倍政権の戦争加担政策を批判して大炎上した桑田圭祐も『永遠の0』については映画版を見て「平和への思い」に涙を流して感動し、主題歌をつくってしまった。田原総一朗も「僕は『永遠の0』を読んでいるうちに、ぐいぐい引き込まれた。大東亜戦争への痛烈な批判は「左翼」作家やジャーナリストが書いたものなどと比べものにならないくらいすさまじかった」などと書いている。本サイトにも「『永遠の0』は戦争賛美じゃない、反戦だ」「読まずに批判するな」「百田だからとレッテル貼りで、戦争美化と批判してるだけ」などの批判が届いていた。
しかし、読んだうえで何度でも言うが、『永遠の0』は戦争に反対なんか一切していない。それは、よく言われているように「零戦を賛美している」「特攻を美化している」だけじゃない。『永遠の0』は根本的に戦争を全面肯定しているのだ。
『永遠の0』のストーリーは、戦後60年の平成を生きる青年が語り手となって、特攻で死んだという祖父の軌跡を、戦場での知り合いを探し出し、たずね歩くというもの。戦友たちによると、祖父?宮部久蔵は、零戦パイロットとして天才的な技術をもちながら、「死にたくない」「生きて帰りたい」が口癖の海軍航空隊一の臆病者だったという。
戦友たちの口からは、宮部の思い出と同時に、真珠湾攻撃に始まり、ミッドウェー、ラバウル、ガダルカナル、サイパン、レイテそして特攻、終戦と日本軍の戦いぶりが語られるという構造になっている。
しかし、それがどのように語られているかというと、たとえば、開戦でもあるハワイの真珠湾奇襲攻撃についてはこんな感じだ。
「(真珠湾攻撃は)戦術的にも大成功だったかと言えば、実はそうとも言えなかったのです。それは第三次攻撃隊を送らなかったことです。我が軍はたしかに米艦隊と航空隊を撃滅しましたが、ドックや石油備蓄施設、その他の重要な陸上施設を丸々無傷で残したのです。これらを完全に破壊しておけば、ハワイは基地としての機能を完全に失い、太平洋の覇権は完全に我が国のものとなっていたでしょう」
他も大差ない。日本海軍が誇っていた空母四隻が一挙に沈められ、早々に敗戦を決定づけたとされるミッドウェー海戦については「戦後になって、ミッドウェーの敗北の原因をいろいろ本で読んで知りました。すべては我が軍の驕りにあったようです」「ミッドウェー作戦は二方面作戦でした。実はこれは兵法としてはもっとも慎むべき戦法だった」。
半年に渡る地獄の長期戦となったガダルカナルの戦いも「いったいなぜこんな愚かな作戦が実行されたのでしょう。参謀本部は何を考えていたのでしょう。戦国時代のような戦い方で米軍に勝てると判断した根拠がまったくわかりません」というだけ。さらに、戦争末期に至ってもまだこんなことを書く。
「サイパンやグアム方面は多くの島々に我が軍の陸上基地が多数あり、航空機の総数もかなりのものだったから、まさか米軍がやってくるとは思わなかったのだろう。これも油断に他ならない」
「歴史に『if』はないが、もしもあの時、栗田艦隊がレイテに突人していたなら、ほとんどの丸果の米輸送船団は全滅していただろう。そうなれば米軍のフィリピン侵攻作戦は大いなる蹉跌を被ったことは間違いない」
いかがだろうか。おそらく百田らはこうした記述をもって、「戦争を否定している」「軍上層部を痛烈に批判している」と言っているのだろうが、あくまで「戦争に負けたこと」や「戦争の戦い方」を批判しているのであって、「戦争」そのものを批判しているわけではまったくない。
そもそもなぜ戦争が起きているのかに関しては、登場人物の誰ひとりして、批判はもちろんひと言の疑問さえも一切口にしてないのである。それどころか、「??をしておけば」「油断があった」「驕りがあった」「決定的なチャンスを逃した」......ようは「こうしておけば勝てたかもしれないのに」と主張し続ける。
これらについては、語っているのが年老いた元兵士だからだろう、と思う人もいるかもしれない。しかし、それは武勇伝をきいた語り手の青年も同じだ。そこに何か複雑な思いを抱く訳でもなく、ただただ感化されていく。そして、こんな感想をいう。
「航空母艦の戦いといえど、結局は人間同士の戦いだった。戦力データの差だけが勝敗を決めるのではない。勇気と決断力、それに冷静な判断力が勝敗と生死を分けるのだ」
スポーツ観戦の感想ですか、と言いたくなる浅さ。これは、語り手と一緒に取材している姉も同じだ。海軍上層部について「エリートゆえに弱気だった」「頭には常に出世という考えがあった」「作戦を失敗しても誰も責任を取らされなかった」と批判するのだが、気になって「いろいろ調べてみた」という内容が、「試験の優等生がそのまま出世していくのよ。今の官僚と同じね」「ペーパーテストによる優等生って、マニュアルにはものすごく強い反面、マニュアルにない状況には脆い部分があると思うのよ」というもの。で、それを聞いた語り手である弟がまた「戦争という常に予測不可能な状況に対する指揮官がペーパーテストの成績で決められていたというわけか」と返す。
「お前らこそペーパーテスト姉弟か!」とツッコみたくなるが、とにかく論点は最初から最後まで「勝敗」。戦争すべきでなかったという原則論はもちろん、戦争を回避できなかったのかというプラグマティックな視点も皆無だ。そして、ふたりはこんな結論にたどり着く。おじいさんは戦争に殺されたんじゃない、海軍に殺された──。これのどこが戦争反対なのか。
しかも、『永遠の0』にはもうひとつ特徴がある。それは日本軍の被害ばかりを書き立てていることだ。
「結局、総計で三万人以上の兵士を投人し、二万人の兵士がこの島で命を失いました。二万のうち戦闘で亡くなった者は五千人です。残りは飢えて亡くなったのです」
「半年間におけるガダルカナル島の戦いでの犠牲はおびただしいものでした。陸上戦闘における戦死者約五千人、餓死者約一万五千人。/海軍もまた多くの血を流しました。沈没した艦艇二十四隻、失った航空機八百三十九機、戦死した搭乗員二千三百六十二人。これだけの犠牲を払って、ついにガダルカナルの戦いに敗れたのです」
「桜花を中心とした神雷部隊の戦死者は百五十人以上、神雷部隊全体の戦死者は八百人以上です」
「おじいさん一人が死んだわけじゃないよ。あの戦争では三百万人の人が亡くなっている。将兵だけでも二百三十万人も戦死しているんだ。」
「おばあちゃんにとっておじいさんがただ一人の夫だったように、亡くなった二百三十万人の人にもそれぞれかけがえのない人がいたんだと思う」
二百三十万人とか三百万人というのは日本人戦死者の数だ。アメリカにも戦死者はいるし、この本には一切出てこない韓国や中国などアジア各地でも無数の犠牲者がいて、その人たちにもそれぞれかけがえのない人がいた。それに、そもそも戦争を起こしたのは日本なのだ。『永遠の0』には、そういう"加害"という視点が一切ない。
このことは、語り手の祖父であり物語の主人公?宮部久蔵のキャラクターにも反映されている。
零戦パイロットの宮部は、お国のために命を捧げるのが当たり前の日本軍にあって臆病者とそしりを受けながらも、"命を何よりも大事にする男"で、たとえば、真珠湾攻撃の成功に仲間たちが湧くなか、ひとり浮かない様子で「未帰還機が二十九機出た」「妻のために死にたくない」と言う。特攻に志願する者は一歩前へと言われ、「命が惜しい」とひとり動かず怒鳴られる。部下をもつようになると、「命は一つしかない」「死ぬな。どんなに苦しくても生き延びる努力をしろ」と部下に諭す。特攻要員の教官になると、未熟なまま実戦に投人されて死んでほしくないと学生たちに合格点をつけない。
こうした戦場にありながら「死にたくない」というこの宮部のキャラクターこそが、『永遠の0』を"戦争反対の小説"と言わしめている最大のポイントだ。
だが、ちょっと待ってほしい。たしかに宮部は「命は何よりも大事」と言うが、それは自分の命や同じ日本軍兵士の命であって、敵のアメリカ兵の命のことは考えていない。自分は「死にたくない」と言うが、敵を「殺したくない」とは言わない。
それどころか、宮部は敵兵に対しては容赦がない。たとえば、撃墜した戦闘機からパラシュートで月兑出する米兵をさらに狙い撃ちする、というくだりは象徴的だろう。
無抵抗の相手を撃ったことに、「武士の情けはないのか」「墜とした敵の命まで奪うことはないだろう」と軍の上司や同僚たちからも強い非難を浴びる。しかし、その非難に宮部はこんなふうに答えるのだ。
「米国の工業力はすごい。戦闘機なんかすぐに作る。我々が殺さないといけないのは搭乗員だ」
「俺の敵は航空機だが、本当の敵は搭乗員だと思っている。出来れば空戦ではなく、地上銃撃で殺したい!」
「あの搭乗員の腕前は確かなものだった。(中略)あの男を生かして帰せば、後に何人かの日本人を殺すことになる。そして──その一人は俺かもしれない」
自分が死なないために、冷徹に敵を殺す。このくだりは、決して作品のなかで否定的に描かれているわけではない。むしろ、情にとらわれない冷静な洞察力の持ち主と肯定している。かといって、敵を殺すという戦争の厳しい現実として、読者に差し出されるわけでもない。実はこのアメリカ兵は死んでなかったと戦後に判明するというご都合主義的後日談が挿人され、宮部の罪をなかったことにしてしまう。
ようするに、『永遠の0』は自らも手を汚し、人殺しに手を染めているという加害の部分を完全に隠蔽しているのだ。まるで天災のように戦争が起きて、日本はただただひどい目に遭っている被害者で、悲運に懸命に抗っている......どこまでいってもそんな姿勢でしか戦争を描いていない。
断っておくが、主人公や孫の青年に反戦の思いを語らせろ、といっているのではない。逆だ。『永遠の0』が最悪なのは、そういった現代の価値観のまま上から目線で戦争を説明的にああだこうだ評しているだけで、当時の狂気、リアリティがみじんも描かれていないことなのだ。
そもそも、日本軍で「死にたくない」「生きて帰りたい」と日常的に公言するという主人公の設定じたいが、あり得なくないか? 当時は、一般庶民でさえ、心の奥底では「戦地に行かないで」「生きて帰ってきて」と思っていても、世間の空気的にそんなことは絶対に言えず、「万歳」と送り出すしかなかった、そんな時代なのだ。
戦時中、多くの文学者が転向するなか数少ない反戦を貫いた詩人?秋山清が発表した、「送行」という詩を読んでもらいたい。
安田末吉は三十五才。/株屋の店員から/徴用工―応召。/この飛躍は/米軍マーシャルに迫る/緊迫と軌を同じうする。/ゆく者は生還を期すにあらず。/しかも送行の三十里の車中は/なごやかな談笑にすぎた。/暮れなずむ印旛沼は/しろく冬ぞらをうつし/兵舎町の駅のホームに立って/君は手をあげた/君をおいてわれわれは走り去った。/松山や/麦畑や/なだらかな丘の勾配や/雑木林や/冬枯れ乾いた風景を送って/電車は灯のない東京の街にかえった。/家のなかはひっそりとした団欒であった。/母と妻と七才の娘と/明日からこのさびしさに親しむだろう
現代の読者には、これのどこが反戦なの?とピンと来ないかもしれない。でも、これが精一杯の抵抗とされていたのが、当時の空気なのだ。
そんな中で、軍人が「生きて帰りたい」と公言して、「海軍一の臆病病ものだなあ、お前は」的な笑い話ですませられるわけがないだろう。
そんなところから、最初に『永遠の0』を読んだ時は、もしかして、これ、タイムスリップ小説なんじゃないか、と思ったほどだ。実は、宮部は平成の世界からタイムスリップしてきた未来人で、「死にたくない」っていうのは、現代人の感覚で軍の空気読まずに言っちゃってる的なことなのか、と。それくらい、宮部のメンタリティが現代人そのまま。それに、宮部が真珠湾、ミッドウェー、ラバウル、特攻と派手めな有名どころの戦場にばかり顔を出しているのも、坂井三郎、西澤廣義といったスター?パイロットと絡むのも、歴史ダイジェスト的なタイムスリップものと思えば、納得できる。
しかし、当たり前だが、最後まで読んでも「宮部は未来人だった」というオチは出てこなかったし『永遠の0』はタイムスリップ小説ではなかった。タイムスリップしているのは百田尚樹の頭のほうだったのである。戦後の平和ボケ的な価値観そのままで戦争を描いているだけ。しかも、本人はそのことに全く気づいていない。
それがもろに出ているのが主人公の孫が訪ね歩いた祖父の戦友たちの証言だ。彼らはさんざん孫に戦争体験を語り聞かせながら、その一方で、彼らの台詞の中にはこんな言葉が頻繁に登場するのだ。
「戦後になって、ミッドウェーの敗北の原因をいろいろ本で読んで知りました。」
「戦後になって、この時のことが「運命の五分間」と言われて有名になりましたね」
「もっとも今、お話ししていることはすべて戦後に知ったことです」
「もっともあの島で何が行われていたのかを知ったのは戦後です」
「これらも戦後知った知識です」
おそらく、この「戦後になっていろいろ本で知った」というヤツが、今、ネットで盗作ではないかと指摘されている記述の一部なのだろう。まあ、「本を読んだ」という登場人物が出てきて、その本の内容を語っているわけだから、盗作というのはちょっとちがうと思うが、しかし、わざわざ登場した戦友が生の体験でなく、「戦後」に知った情報を語ってしまうということ自体が、この小説の本質を物語っている。
ようするに、『永遠の0』は戦争のリアリティなどかけらも知らない百田が、現代の平和ボケの頭で、戦記物や戦闘シミュレーションをつぎはぎして、それらしい物語にしているだけなのだ。だからこそ、無意識のうちに飢えや戦友同士の殺し合い、強姦といった戦場の悲惨さの描写をネグり、戦術をああだこうだと、まるでスポーツの試合かヒーローもののように、戦争をエンタテインメントとして扱ってしまう。
しかも、最悪なのがそのことに対して、百田自身がまったく無自覚なことだ。
『殉愛』騒動で"噓八百田"と呼ばれるようになった百田だが、「『永遠の0』は戦争賛美でない」というのは決してウソをついているわけではなく、おそらく本気でそう思い込んでいるのだろう。それは、ネトウヨたちが戦争の悲惨さや狂気を見ずに、自分は戦場に行く気などさらさらないのに、「日本を守るために他国を攻撃するのがなぜ悪い!」と叫んでいるのとほとんど同じだ。