楼主 只是买了这本书2009/5/9 22:06:00
不知道有多少人有兴趣一起回顾历史
全书日文原文,白底黑字,少量附图
目录:
第一章 黎明期(1962-1968) 20页
第二章 试行错误(1969-1974) 12页
第三章 试练(1975-1979) 14页
第四章 起死回生(1980-1992) 40页
第五章 发展期(1993-1999) 38页
第六章 近代化(2000-2008) 73页
ジャニーズ研究会 (著)
手机拍的图,效果很差
对于有兴趣的TX我有3个打算(欢迎其他idea):
1.扫描整本做成PDF电子书提供下载(下周估计能搞定,效果未知)
2.人工输人原文(连载的形式,每周或每日更新。估计很费时,但是好处是大家可以一起讨论,慢慢消化。还能一起翻译,让更多的人看)
3.PDF电子书下载后,分工输人原文,最终整合成文字版(甚至翻译版)
PS.LZ目前只看了开头,单纯想分享和讨论下,没有把这书当圣经看的意思
要是么兴趣或者穿越了的话,LZ我就独享去了,抱歉浪费资源
48 只是买了这本书2009/5/9 23:06:00
刚打的全部白打><XQ快速回复无能
那个,其实我也是对smap之前的感兴趣才买的
刚翻了下,最后2008年部分提了结婚、绯闻等大事,担不是爆料,都是媒体放过的。
然后看了点黑白图片,发现古早的idol也不错看
要买书的TX找代购吧(虽然我觉得没必要买||),我当初是在XQ找不到这本书的内容才决定自己买的,TB也没得卖,最后让代购帮我去amazon.jp买的,等了1个月才到手。原价是1200好像
关于著者Johnnys研究会,大家去amazon搜吧,有很多很多书,什么johnnys恋爱像框图啦,绯闻调查书啦,一大推。至于是什么机构就不清楚了,爷爷的三产?
66 只是买了这本书2009/5/9 23:46:00
天很热,睡不着。我把战略那本的目录打一下,内容一目了然了
Stage 0?J.K ジャニー喜多川の人生と計算
三十九年前の未知との遭遇
原点は米国ロサンゼルスにあった
日本の芸能人との出会い
ジャニー再来日の真意
国民的ヒーローで少年の心を摑む
隆盛の端緒は少年野球大会
最後に選んだ四人の少年
日本のタブーに挑む
夢の実現へ...ジャニーズ魔術
最大の野心達成への苦難
本物のエンタテイナーを目指す
夢破れたアメリカ凱旋
男性版宝塚構想
アイドルの限界とJ?Kの苦悩
新しい可能性への挑戦
「感性豊かな憂い」を見る
新しいオーディション形式
プラスワンに悩む日々
アイドルと笑いの融合
世間を知る能力
事務所の実質経営者は姉
有能な音楽プロデューサーの存在
事務所最大のウィークポイント
カリスマに限界は訪ねるのか
89 -。-2009/5/10 7:08:00
在老H上找到了lz和52L两本书
http://www.hmv.co.jp/product/detail/2815245
http://www.hmv.co.jp/product/detail/3469840
91 只是买了这本书2009/5/10 10:38:00
IP难得没有JP,抓住楼上,刚输人完一段
1962年
○「ジャニーズ」は『ウェストサイドストーリー』から生まれた
一月、飯野少年、真家少年、中谷少年、青井少年の4名は、ジャニー喜多川に連れられて当時大ヒットを続けていたアメリカのミュージカル映画『ウェストサイドストーリー』を丸の内ピカデリーで鑑賞。4人は同作品に感動した。
「あの激しく熱っぽい踊りと音楽にすっかり魅了されたしまったのです」(中谷良『ジャニーズの逆襲』データハウス)
同書によると、これがジャニーズ結成の契機となったというが、グループ名もグループを結成すると言う意志も、すべてこのときの感動による4人の自発的なものだったとしている。グループ名は「ジャニーズ球団」からとってジャニーズ。ジャニー喜多川は、この鑑賞のために最高の席を用意して彼らに感動を味わってもらったという。
ジャニーズアイドルにはミュージカル、という切っても切れないコンセプトはこのときに確立したと言ってもいい。
○ジャニーズ結成
四月一日、真家ひろみ(真家弘敏)、飯野おさみ(飯野修実)、中谷良(中谷良三)、青井輝彦(1967年から「あおい輝彦」に改名)の4名によって、日本で最初に形成された、歌って踊れるアイドルグループのジャニーズが結成された。
アイドルグループが踊りをメインにして歌い、ショービジネスをこなすことは、ほとんど誰も気がつかない分野でもあった。ジャニーズ喫茶で外国曲などをレパードリーとして活動を始めた。
こうして少年アイドルグループというジャニーズのジャンルが確立され、このジャンルはジャニーズの独壇場となって、テレビ界を席巻するようになった。
小菅宏の『「ジャニー喜多川」の戦略と戦術』(講談社)によると、ジャニー喜多川はのちに彼らをこう評していたという。
「飯野クンは几帳面で真面目。性格は地味だけどダンスに熱心に取り組み努力家でした。それに兄貴的な性格で頼りがいがあってグループのリーダー格」
「真家クンは思いやりがあって優しかったです。少し独り善がりの面はあったが、デビュー当時はスリーファンキーズ(昭和三十年代に人気が高かった男性三人組)の長沢純クンに顔付きが似ていて、すぐに凄い人気が出ました」
「あおいクンは良家の子息という感じでしたが、要は体が丈夫ではありませんでした。でも体力がつくとルックスも最高で、先天的な素質があったせか歌も踊りも上達し、なによりフレッシュな印象が強かったです。」
「良ちゃんはどこにでもいる親近感を覚えさせる雰囲気があって、ファンの人気を独占していました。運動神経がよく、そのせいか踊りの上達も早かったです。」
「リーダー格」という表現はあるが、いずれも個性がわかれ人気は互角ということである。のちに亀梨和也と赤西仁を「ツートップ」とするKAT-TUNが登場したが、ジャニーズ事務所のタレントは原則として、異なるタイプのタレント4~6名によって構成される「全員スター制」が基本になったいる。「○○でもっているグループ」という構成をしないことは、グループ内の軋轢(あつれき)を抑えて長続きさせるとともに、「○○担当」という個別タレントを応援するオリキをふやすための秘訣でもある。
○ジャニーズ事務所創業
子飼いの4人は渡辺プロダクション預かりとしていたが、6月、ジャニーズ事務所が作られ、はれて独立した。だが、これはジャニー喜多川の個人事業の商号であり、法人登記したわけではなかった。株式会社になるまでは、さらに13年の月日がたっている。
この頃のジャニー喜多川は経済的にも恵まれているとはいえず、専用のレッスン場もない状態で、近くの公園や広場で歌や踊りの稽古を行ったという(あおきひろし『ボクの夢はキミたちが描く夢』メタモル出版)
○ジャニーズが『夢であいましょう』でデビュー
8月、ジャニーズはNHK総合『夢であいましょう』で田辺靖雄のバックとして芸能界デビューした。同番組は、1961年4月8日から5年間生放送された、テレビ黎明期の歴史に残る人気番組である。質の良い音楽バラエティ番組でデビューできたことは、彼らの歌手生活にとって大いにプラスであった。
もっとも、彼らのレコードデビューは2年後になる。ジャニーズタレントは、まず芸能界のデビューがあって、その数年後にレコードデビューするというパターンだが、すでに所属タレント第一号だったジャニーズからその方式が採用されていた。
(《ジャニーズの歴史―光も影も45年》P8-10)
95 只是买了这本书2009/5/10 23:07:00
我发现我自己也是对战略那本更感兴趣,所以忍不住输人了一些。争取明后天可以扫完一本。
那个,有米人翻译啊,我输人得快吐了
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Stage 0 J.K ジャニー喜多川の人生と計算
三十九年前の未知との遭遇
一九六八(昭和四十三)年七月の早朝
国鉄(現JR)原宿駅を降りて左へ向かう道は小高い坂である。その坂を上りきった左側に当時は雑貨店があり、店の前に公衆電話と赤いポストがあった。
待ち合わせ場所は赤いポストが目印だった。
真夏の日がまだ朝靄にけむる時間に、約束に遅れることなく彼は現れた。そこで私は初めてJ.Kと出会った。J.Kはサファリブラウン色の旧式クライスラーに乗っていた。想像していたより小柄で、色白、三十代の働き盛りというのが初印象だった。運転席横の前列に二人、後部座席に二人の可愛い少年たちが眠っていた。まだレコードデビュー前のフォーリーブスである。
行き先を湘南海岸だと告げると、J.Kは愛想のいい笑いを返してきた。その笑顔でペースは完全に相手にあると思わざるを得なかった。
その日は雑誌『週刊セブンティーン』のグラビア撮影で、私は先輩から担当を引き継いたばかりの若手編集者だった。
撮影現場で驚いたのはJ.Kの細やかな行動と柔軟な思考回路だった。カメラマンから注文が発せられるたび間髪を人れず四人のメンバーに的確なアドバイスを送り、それでも気がすまないとでもいうように、直接、ポーズや衣装の乱れを指導して回る。
瞬時も立ち止まることがないJ.Kの行動力にいささか圧倒されていると、ター坊(青山孝=現青山孝史)はもっと笑ったほうがいいですか、トシ坊(江木俊夫)の仕種を少し修正させましょうか、とアイデアを矢矢継ぎ早に繰り出してくる。連発するアイデア、周囲への細かに働く気配りは、その後四十年近く、少しもかわらない。
J.Kのこの行動力が生来のものであると分かるのはしばらく後になってからだが、こちらの予測を超えることがしばしばであった。当初、彼の言動は他人を圧するための行為かと思ったのだが、やがて誤解していたことに気づいた。
独創的に発言し、制約なしに行動する姿がJ.Kの通常だと知ったからだ。以後、彼と対峙するときはこちらも積極的に発言し、行動することが習慣になった。
以来、世間でジャニーズコンプレックスと称するほどにアイドルを誕生させ続けるJ.Kに、私は好奇心を抱きつづけてきた。
原点は米国ロサンゼルスにあった
色白で小柄な十代の少年の瞳はステージの光のシャワーを撥ね返して、時間の経過とともにキラキラと輝きを増していった。圧倒的な音楽の量感と躍動感あるれる踊りの場面転換に、少年の胸は興奮を通り越して歓喜していた。
一九四○年代後半のある時期、少年の姿は、毎日バックステージ(舞台裏)にあった。目の前の舞台は米国ロサンゼルスのアニ.パイル劇場。現在の日本のショービジネスにたとえるなら、宝塚に似た歌とダンスが人気を博していた当地のメーンシアターの一つだった。
少年の名は喜多川擴。後のJ.Kである。
J.Kの父親は高野山の導師で母親も日本人だが、真言密教の布教のためにアメリカを訪れ、J.Kは一九三一(昭和六)年十月、ロサンゼルスで生まれた。家族は太平洋戦争勃発で一時帰国するが、終戦後に再渡米し、J.Kはロスの高校に通い始めた。
アメリカの高校生にとって、将来自分が目指す職業への助走とするために、その関連先でアルバイトをするのは日常的な生活習慣である。
J.Kは迷わず老舗の劇場をバイト先に選んだ。
「ミュージックメーカーたちのスペシャルサービスの仕事をしていた。」彼は当時を振り返り、そう語った。
要するにスペシャルサービスとは裏方の雑役のことだろうが、J.K本人にとっては願ってもないバイト内容であったに違いない。なにしろ当時は白黒テレビのステレオタイプの画像でしか目にしたことのないナマの演奏と、きらびやかで華やかに彩られたステージを独占的に目にすることができたのだから。
J.Kのチョービジネスで働きたいという「夢」は日に日に膨らんでいく。長い間、いつか音楽関係、そして舞台関係の仕事に身を捧げたいと願っていた「夢」が、この劇場で働いたいると、今すぐにでも現実化するかのような期待感があったからかもしれない。毎日が愉しく刺激的だったという。
むしろ、J.Kの「夢」が叶うのは、それから十数年後となるのだが、その間、彼のステージシーンに携わる仕事に就きたいと願望する気持ちが挫けることはなかった。
しかし、少年が社会の現実に初めて遭遇したときの衝撃は、J.Kとても同様である。
一度のミステイクで職を追われる非情さが、とくにショービジネスの世界では著しいのが通念だ。舞台でこぼれるばかりの笑顔を見せるショーマンが、バックステージに戻れば途端に不機嫌になり、裏方をはげしく責め立てる場面に少年の胸は凍りついた。
それはどに光と影の落差のある世界がショービジネスだったと気づかされたが、念願だった「約束の場所」に自分がいる、という実感を身に染む込ませたのもこの時期だ。目の前で演じられる本場アメリカのレビューの汗と涙と喜びがJ.Kの心の襞に深く根づいたのは、このバイトの日々にあった。
それが現在までの源流となっているのは確かだ。
後年、ジャニーズアイドルをデビュー後に一度は渡米させてされに人気を不動のものにするJ.Kの政略の原点は、実はこの時期の「ショービジネスの本場はアメリカ」という確固たる信念を築いたアニ.パイル劇場でのアルバイト経験にある。
日本の芸能人との出会い
戦前に渡米の任に就いたJ.Kの父親は、現地で活発な布教活動に精を出し、その誠実な態度に日系人をはじめとする現地の人間の信頼を獲得したと伝えられる。その努力の成果を証明するように、渡米後間もなく父親の説教の集会場が建てられたのも束の間、日米開戦により喜多川一家は日本へ戻った。しかし終戦後に再びロサンゼルスの地に舞い戻り、そしてこの帰還がJ.Kの人生の岐路となる。地元のハイスクールへ通う時期、父親の集会場が彼の将来を決定づける環境となったのである。
当時、日本の芸能界を先導する活躍をしていた俳優や歌手がアメリカを訪れるたび、J.Kの父親の集会場を舞台にしてショーを開いたからである。一九五○年代、世界の文化の中心地はアメリカであり、日本の芸能人は先を争って渡米する。いわゆる、箔をつかる、といった二次的な意味合いを含んではいるが、そのことがJ.Kの運命を変えることにもなる。
俳優の大河内伝次郎、田中絹代、山本富士子、高峰三枝子。歌手のディック.ミネ、笠置シヅ子、霧島昇、二葉百合子に美空ひばり。作曲家の古賀政男、服部良一など、当時は曇の上存在であった芸能人およびその関係者ばかりだった。
ショービジネスで働きたいとの願望が強かったJ.Kにとっては、将来の働き場の空気を味わうには格好の環境を得たことになる。
J.Kは彼らから、「ヒー坊(本名の擴による)」と呼ばれた。十九歳になっていたが小柄なせいか実年齢よりも若く見えて可愛がられ、これら日本のトップの芸能人と知遇を得る機会に恵まれた。
J.Kはこのとき、日本からきた芸能人の現地コーディネーターや通訳を買って出て、目端の利くヒー坊として重宝がられた。この後の人脈を築くのに大いに役立っただろう。当時の彼には、日本の芸能界における「自分という存在」の具体的な絵図面は描かれたいなかったかもしれないが、真綿が水を吸い込むように、この時期に学んだ経験が後に貴重な財産になる。
そしてこのときの「目端が利くヒー坊」が、プロデューサー兼マネージャーJ.Kのスタートになった。
J.Kの場合、目端が利くという意味は、単に機転が利いて用事を器用にこなす便利屋ということではなく、諸事万端に人の意表を衝くアイデアマンとしての才能をもっているという意味合いが強い。
当時のエピソードを本人から聞いたことがある。時代の趨勢で、どんなにトップの芸能人でも簡単に渡米できる経済的余裕はなく、多くの芸能人が予算ギリギリでやって来るのを知ったJ.Kは、ロサンゼルス在住で親戚のカメラマン(宮武東洋)に話をつけ、渡米してきた芸能人のポートレートを撮影した。この写真を複製して会場内の観客に売るアイデアを提案したのだ。結局このアイデアは大成功する。
このことは後年、自らが発掘し育てあげ世に問うジャニーズアイドルへの彼のかかわりあいを検証してみれば明らかとなる。たとえばアイドルグループの名称、派手な衣装や突飛な仕掛け、限界直前まで引き絞った弓から矢を弾き飛ばすようにファンを焦らすデビュー時期の選定、デビュー曲の哀愁テーマの主題、グループ独自の斉唱歌唱法などに至るまで、細部に彼自身の造型感覚が擦り込まれるのを見れば納得がいく。
「そのポートレートの売り上げは全て日本のアーティスト(J.Kは日本の芸能人をアーティストを表現する)に渡したんです。それでずいぶん感謝されました」
父親の集会場で彼らと出会い、間近に舞台を目撃し、スポットライトに輝く表舞台とあまりに人間臭い舞台裏とを体験するうち、J.Kが意識するしないにかかわらず、彼の前途にチョービジネスの世界が広がっていたのは充分に予測できる展開だった。
「起は必ず時節到来なり」という道元禅師の言葉にあるように、人間の人生での出会いは必ずその人にとって意味のあることだから大事にしなければならない-それはJ.Kのロスでの幾多の出会いにも感じ取れる。
(芸能をビッグビジネスに変えた男 「ジャニー喜多川」の戦略と戦術 P12-19)